羽地朝秀生家跡
歴史
琉球王国時代の政治家羽地朝秀の生家跡。
基本情報
- フリガナ
- ハネジチョウシュウセイカアト
- 所在地
- 903-0823 沖縄県那覇市首里大中町1-41 付近
- 営業時間
- 特になし
- 休日
- 特になし
- 料金
- 無料
- 駐車場
- なし
- アクセス
- 桃原バス停より徒歩5分
付随情報
- 学術的詳細
- 琉球王国時代の政治家羽地朝秀の生家跡。
羽地家は第二尚氏王統第三代国王尚真の第一子尚維衡浦添王子朝満を始祖とする小禄御殿家の分家で、羽地間切(現名護市羽地)を領有した名家である。羽地朝秀は羽地按司家六世として1617年に生まれた。唐名(中国名)を尚象賢という。1650年国王尚質の命を受け、王国の正史「中山世鑑」を編集した。また、たびたび鹿児島へ上国し、薩摩側と信頼関係を築いた。1666年首里王府の最高ポストである「摂政」に就任、1673年に辞任するまで7年間務めた。この間羽地の打ち出した政策は、行政機構の改変、農村支配の見直し、王府祭祀の合理化など政治・経済・社会全般にわたり、その布達文書は後に『羽地仕置』としてまとめられ、羽地の死後も王府行政の指針となった。1675年死去、享年59歳。墓は首里平良町の丘陵にあり、1922年(大正11)沖縄史蹟保存会の手により墓碑が建てられた(現存)。 - 情報引用元
- 那覇市歴史博物館