綾門大道周辺の旧跡
歴史
琉球王国時代、海の玄関口那覇港から泊の崇元寺を経て首里城に至る道は、王国随一の公道であった。ことに「下の綾門」と呼ばれた中山門と「上の綾門」と呼ばれた守礼門の間を中心とした幅広い道を綾門大道といった。
基本情報
- フリガナ
- アイジョーウフミチシュウヘンノキュウセキ
- 所在地
- 903-0816 沖縄県那覇市首里真和志町1-9 付近聖アンデレ教会前
- 営業時間
- 特になし
- 休日
- 特になし
- 料金
- 無料
- 駐車場
- なし
- アクセス
- 首里城前バス停より徒歩1分
付随情報
- 学術的詳細
- 琉球王国時代、海の玄関口那覇港から泊の崇元寺を経て首里城に至る道は、王国随一の公道であった。ことに「下の綾門」と呼ばれた中山門と「上の綾門」と呼ばれた守礼門の間を中心とした幅広い道を綾門大道といった。18世紀初めに作成された「首里古地図」によれば、綾門大道の周辺には、世子殿である中城御殿や大家別寮の大実御殿をはじめ、王家陵墓の玉陵、御客屋、さらに天界寺や安国寺など王府関連の建造物が立ち並び、王都にふさわしい景観を形づくっていた。かつて、この大道では、国王一代に一度限りの「綾門大綱」(大綱引)や、毎年元日に行われる「馬勝負」(馬術)などが催された。綾門大道周辺の旧跡は、王陵の修復、そして首里城の復元と整備が進められている。
■中山門跡(チュウザンモンアト)
中山門は王都首里第一の坊門(ぼうもん)で、綾門大道(アイジョーウフミチ)の西端に立っていた。別名「下の綾門(シムヌアイジョー)」、「下の鳥居(シムントウイ)」。
1428年創建といわれる。中国の牌楼式(はいろうしき)の門で、復元された守礼門と同型同大。中山門の名は、尚巴志(しょうはし)王の冊封使柴山(さいざん)(1425年来琉)が献じた「中山」の文字を、後に扁額として掲げたことによる。廃藩置県(はいはんちけん)(1879年)後、老朽化が進み、1908年5月払い下げられ、撤去された。
■真壁殿内跡(マカンドゥンチアト)
琉球王国時代の高級女神官の一人「真壁(マカン)大あむしられ」の神殿及び住居跡。
尚真(しょうしん)王代(1477~1526年)、神女組織が整備され、最高女神官「聞得大君(きこえおおきみ)」の下に、真壁・首里・儀保の3人の「大あむしられ」と呼ばれる高級女神官が置かれ、琉球全域のノロ(神女)を3区域にわけ管轄させた。
廃藩置県後、真壁殿内・首里殿内・儀保殿内の3つの神殿は統合されて「三殿内(ミトゥンチ)」と呼ばれ、天界寺(てんかいじ)の一角に移されたが、沖縄戦で失われた。
■綾門チンマーサー(アイジョーチンマーサー)
チンマーサーとは、石を円形に積み上げたものの意。
冊封使録『中山伝信録(ちゅうざんでんしんろく)』によれば綾門チンマーサーの石囲いの中にはソテツが植えられていた。かつて那覇から首里に至るには、このチンマーサーが綾門大道の道標ともなり、これを過ぎると中山門を望み、綾門大道が眼前に広がった。
沖縄戦後、綾門チンマーサーは民家敷地に取り込まれ、現在もその一部が残っている。
■京阿波根塚(キョウアハゴンヅカ)
阿波根実基(あはごんじっき)を葬ったとされる塚。阿波根は、嘉靖(かせい)年間(1522~1566年)、宮古島より国王に献上された宝剣「冶金丸(じがねまる)」を研磨させるため、京都に遣わされた。帰国後、宝剣がすり替えられたと知り、再び上京。三年余りの歳月をかけて宝剣を取り戻し、名声を博した人物である。
美連嶽(ミンチらウタキ)
直立の岩を神体とする御嶽(ウタキ)(拝所)。
別名メズラダケ。「真壁大あむしられ」の管轄する御嶽の一つで、昭和10年代まで尚貞(しょうてい)王(1669年即位)が世子(せいし)の時に建立した拝殿の礎石が残されていた。
■御客屋敷(ウチャクヤアト)
薩摩藩(さつまはん)の在番奉行(ざいばんぶぎょう)などが首里城に登城する際の控所。創建年代は不詳。敷地は451坪余りあったという。
在番奉行一行は、ここで城からの案内を待って登城した。廃藩置県直後は首里警察署、1890年に首里尋常小学校の校舎が建てられたが、1912年に首里城内に首里尋常高等小学校として移転したため、空地となった。
■安国寺(アンコクジ)
臨済宗(りんざいしゅう)の寺。山号は大平山(たいへいざん)。尚泰久(しょうたいきゅう)王が景泰(けいたい)年間(1450~1456年)に、歴代国王の冥福(めいふく)と国王の健康祈願の為に創建。開祖は、中国浙江省(せっこうしょう)出身の熙山周雍禅師(きざんしゅうようぜんじ)。のち天界寺(てんかいじ)の末寺となる。一説には、室町時代に日本全国に建てられた安国寺(一国一寺の制)に準じたものという。1674年現在地に移転。沖縄戦で焼失したが、戦後再建された。
■旧中城御殿跡(キュウナカグスクウドゥンアト)
琉球王国世子の旧殿宅跡。尚豊王代(1621~1640年)の創建とされる世子殿は、1975年に龍譚の北側(現県立博物館敷地)に移転。跡地は「下の薬園(シムヌヤクエン)」となった。
廃藩置県の後、1891年に沖縄尋常中学校(後の沖縄県立第一中学校)となり、沖縄戦後、首里高校の校地となった。
■大美御殿跡(ウフミウドゥンアト)
もとは尚精王の世子時代に別邸。1547年に増築し、首里城内の女性の休養・産所、または冠婚葬祭の礼式を行う場所となった。綾門大道に接した望楼では、大道で催される綱引きや馬勝負などの見物、また、元旦には、路上の土族から桜上の世子・王子衆へ名刺が進上された。1854年来流のアメリカのペリー提督一行が首里城を訪問した際、同殿で接待が行われた。
廃藩置県直後、建物の一部に首里役所が置かれたが(後に移転)、明治後期に敷地・建物ともに払い下げられ、1925年に沖縄県立第一中学校の運動場となった。
■玉陵(タマウドゥン)
第二尚氏王統の陵墓。尚真王代(1477~1526年)、父尚円王の墓を改葬するため、築造された。
創建年は、王陵の前庭に建つ「玉陵碑」の碑文から1501年とされている。同碑は現存する仮名書き碑文として県内最古のもので、王陵に葬られるべき人を規定している。沖縄戦では、日本軍の陣地となり大破。戦後修復された。
■天界寺跡(ティンケージアト)
臨済宗の寺。山号は妙高山。尚泰久王の景泰年間(1450~1456年)の創建とされる。開祖は渓陰禅師。
後に円覚寺・天王寺とともに三大寺と称せられた。廃藩置県後は払い下げられ、寺域内に「三殿内(ミトゥンチ)」の神殿が建てられたが、沖縄戦により焼失。現在、1697年に造られた天界寺の井戸が残されている。
なお、天界寺東側は天界寺マーチュー(松林)と呼ばれ、廃藩置県後、首里小学校(後の首里高等小学校、1912年首里城内に移転)、師範学校の記念運動場どなった。
■御細工所跡(ウセークジョアト)
御細工所については、設置年も含め詳細は不明。御細工所跡の発掘調査から、1733年に設置され、国王の衣装・冠をはじめ、畳・かさ・提灯などの道具類、また駕籠・靴などを作る「小細工奉行所」の前身と推測される。跡地は、廃藩置県の前にすでに「上の薬園」となっていた。
1900年首里尋常高等小学校女子部(後の首里第二尋常高等学校)が移転。現在は私立城西小学校になっている。
■守礼門(シュレイモン)
守礼門は王都首里第二の坊門で、綾門大道の東端に位置する。別名「上の綾門(ウィーヌアイジョー)」、
「上の鳥居(ウィーントゥイ)」。創建年は明らかではないが、尚精王代(1527~1555年)、すでに建立されてた中山門と同型同大の牌楼を造営したとされる。初め「待賢(たいけん)」、「首里」の扁額がかけられ、「待賢門」、「首里門」といわれたが、1663年以降、「守礼之邦」の扁額が常用されるようになり「守礼門」と称されるようになった。1933年国宝に指定されたが、沖縄戦により焼失。琉球王国時代の象徴として1959年にいち早く復元された。 - 情報引用元
- 那覇市歴史博物館