首里殿内跡
歴史
琉球王国時代の高級女神官の一人「首里大阿母志良礼(シュイウフアンシタリ)」の神殿及び住居跡。
基本情報
- フリガナ
- シュイドゥンチアト
- 所在地
- 903-0813 沖縄県那覇市首里赤田町2-16 付近
- 営業時間
- 特になし
- 休日
- 特になし
- 料金
- 無料
- 駐車場
- なし
- アクセス
- 「ゆいレール」首里駅から徒歩約6分
付随情報
- 学術的詳細
- 琉球王国時代の高級女神官の一人「首里大阿母志良礼(シュイウフアンシタリ)」の神殿及び住居跡。
尚真王代(1477~1526年)、琉球王国の神女組織が整備され、最高女神官「聞得大君(きこえおおきみ)」の下に首里(シュイ)・真壁(マカン)・儀保(ジーブ)の3人の「大阿母志良礼(おおあむしられ)」が置かれた。3人の「大阿母志良礼」は、聞得大君(きこえおおきみ)を補佐して国王の長寿・国の繁栄・五穀豊穣・航海安全を祈願するほか、琉球国中の御嶽・神女を3分割して所管した。「首里大阿母志良礼」は、首里の南風之平等(フェーヌヒラ)(現大中・桃原・当蔵・赤田・崎山・鳥堀町地域)を始め、斎場御嶽(セーファウタキ)や久高島のある知念間切、尚円王統初代の尚円ゆかりの伊是名島など王国祭祀で重要な地域の御嶽や神女(ノロ)を管轄した。
廃藩置県(1879年)の後、首里・真壁・儀保の3つの殿内の神殿は天界寺(ティンケージ)跡の一角に移され、1つの建物にまとめられて「三殿内(ミトゥンチ)」と呼ばれた。首里殿内跡は大正初期に払い下げられ、敷地の一部は赤田倶楽部(公民館)となり、1921年(大正10)に結成された首里三箇(サンカ)(赤田・崎山・鳥堀町)の中学生会「三星会(さんせいかい)」の集会所としても利用された。
赤田町には旧暦7月16日に弥勒神が町を練り歩く「ミルクウンケー」という行事が古くから伝えられ、この行事を歌ったわらべ歌「赤田首里殿内(アカタスンドゥンチ)」は広く親しまれている。 - 情報引用元
- 那覇市歴史博物館